(4)焼板製材  

 製函製材や米杉、米松製材の他に焼板製材と称する工場あり、これらの製材はいずれも北洋材を生地板に塀板や外張用の焼板を生産するも特殊な技術を必要としたために工場数は少数に過ぎなかったが、其の主なる工場には太田製材所(太田栄治郎、宇須)西川製材所(西川晋平、湊御膳松)屋根熊製材所(手平)小早川製材所などがあった。このうち小早川製材所は賃加工を専門とし他の工場は主に2分2厘の焼板を生産す。販売先は市内の板問屋にして、板問屋は県下から初まって四国、高松、徳島方面に販売、当時この焼板は本市の特産でもあった。価格は2分2厘の生地で1坪68銭から70銭、焼賃は1束(2坪)2銭5厘から3銭で米杉の天井板とともに需要は盛んであった。

(5)北洋材の一般製材

  此の他北洋材の入荷が盛んになるにつれて、北洋材を専門に一般建築材を挽く工場も又増加した。特に大正12年の関東震災の復興用材として安価な北洋材製品の需要が盛んになるに及び、市内鼠島の工場の多くは北洋材を生産した。其の主なる工場には井筒製材所、平野製材所、福田製材所、江川製材所、河口製材所、松村製材所などがあり和歌山筋では湯川製材所、谷口製材所、高田製材所その他直川製材所(銭座町)荢野製材所(綱屋町)、今西製材所(上町)、柳瀬製材所(湊御殿)、があった。製品は主に垂木と板類にして価格は、震災後の大正14年頃は4分板で平均1円40銭(1束)、其後漸次値上りを見、昭和3年1円61銭、小割類は1円35銭内外となる。