栂の黒木類が多くまた製函用材として中長商店が取扱い自家用船長運丸をもって本市に輸送す。その他の地は杉、桧の針葉樹であったが有田は小丸太類が殆んどであった。

 当時四国、中国の旅材は長さ13尺5寸の2間材であったが、県内材は同じ2間物でも有田、日高材は14尺5寸を通常とす。これは同地方は当時?流しのため5寸の<メガ>を必要としたためである。その他日置、周参見、古座の紀南材は丈物(10尺)これは同地方の河川の川巾は、有田日高川に比べ比較的狭かったことや、管流しが多かったためである。輸送は機帆船によるも有田材は箕島港から海洋?により県内材では入荷量は最高で次は野上材であった。

  当時有田川流域から野上方面に当市より進出せる業者に中長商店や中西木材店(中西義一)近谷木材その他があり、これらの業者は主として、山林の買つけから初まって素材の生産を行なった。此の他紀の川流域より高野林は小量であったが、貨車便やトラック便をもって入荷す。貨車便によるものは紀和駅(現在の和歌山駅)で荷卸し真田堀で?に組み替え内川を経て岡上げした。< /p>

以上は大正年代から昭和の中期に於ける国産材の入荷情況であるが、日支事変がたけなわになった昭和13、4年頃より県外への移出が禁止されるに至り、吉野材や旅材の入荷が途絶し、本市では専ら紀の川流域及び有田、野上、日高方面に依存するところとなった。左記は当時の相場である。
 原木相場
大正2年 3銭(才)
大正5年 6銭(才)