此の頃の土佐材は二間の杉桧の丸太で、中でも4、5下の小丸太が最も多く、官材では杉、桧、小丸太類の他栂、樅類であった。官材は総て入札で月に1~2回入札があり、縦、栂類の入札には大阪や徳島方面の業者と競争したが、太い物は何時も大阪や徳島方面の業者が落札、尺2寸下の比較的細物は和歌山市の業者が主に落札した。これは当時北洋材が減少しつつあった頃で、其の代替材として当市の需要が盛んであったためである。移入材の殆んどは本市の製材工場へ販売されたが、小丸太類(2寸5分下)は当時京阪神はビル建築が盛んであったために、足場丸太として主に此の方面に販売されたが、一部は下津港より本船で台湾、遠くは鮮満に出荷された。

 当時旅材を主に移入した業者は、石井商店、平野林平商店、保富商店、小野新商店、松庄商店、川辺商店、小野庄商店などがあった。これら問屋の内、石井商店は昭和8年に須崎町に出張所を開設、続いて翌9年に平野林平商店が高知市山田町に出張所を開設し両者は常に1、2を競った。 此の頃土佐材を主とする旅材の取引条件は、契約金2割の積込後オール現金払いで、製材工場との取引は半金半手(期間60日)を商習慣とした。尚前記移入業者らがよって、土佐材移入組合を結成し、毎月1回例会を開き価格やその他の事項について協議を行なった。仲買商のことを“原木屋”と呼ぶ様になったのも此の頃からである。

(五)県内材の入荷状況

 旅材のほか、県内よりは、日高、有田、周参見、日置、古座、新宮、近郊では高野、野上材などの入荷を見て居り、その数量は1ヶ月凡そ70,000石内外であった。此のうち日高材は当初樅、