これは旧新宮藩主水野忠幹が深川に木材問屋を開業して盛んに新宮材を送っていたためである。  又、此の当時より木材取引上の材積計算法が変り旧来の79算法が廃止となり角材が主に東京に丸太は大阪に送る方が有利となり東京は製品市場に大阪は原木市場となった。  一方、此の間吾が国の経済を大きくゆさぶったものは西南戦没後のインフレーションとこれに続く松方デフレーションであった。  西南戦没後のインフレーションは戦没の戦費と封建制度解消のための費用調達などを目的とした公債や不換紙幣の増発によるもので、明治10年頃から物価は騰貴しインフレーションを引き起すに至り木材価格も又上昇した。公債と不換紙幣の増発によるインフレーションの悪循環をたち切るために明治14年松方正義が時の大蔵郷(大蔵大臣)に就任すると不換紙幣の整理を強行に断行した。  其の結果、深刻なデフレーションに転じ諸物価は暴落した。その中で最も大きな影響を受けたものは米と木材であった。  試みに当時米と木材価格を見ると明治5~6年頃の木材価格は篇柏尺角2間物1円0銭、松尺角2間物91銭、玄米1升8銭5厘、西南戦争(明治10年)中には米は暴落し3銭8厘となる。一方、木材は維新改革後に於ける国土建設の需要の増大のため比較的強い相場を堅持、尚戦没後の12~3年頃よりインフレの為め急上昇し篇柏角物で6円50銭、松尺角物で5円80銭に暴騰した。篇柏に比較し松材の高値は国土建設のための用材や特に橋梁の架設に多く使用された為である。米は15銭に値上りす。