(三)昔のお茶屋と材木屋

 大正から昭和の中期にかけて、当市の木材業は益々盛んになるとともに大いに儲かった。中でも

第一次大戦終了後の大正9年から10年頃は、其の最盛期で<倍の倍の倍>の歌が流行するほど値上りし、一躍成金になる者も多く、連日連夜芸者をあげて遊ぶ者が多く和歌山の材木屋には娘を嫁にやれんと言う位い遊んだものである。

此の頃の材木屋の服装はアツシにセッ駄ばきで、アツシさえ着て居れば、どこのお茶屋でも大いにもてたものである。

当時のお茶屋は丸の内(現在の12番丁一帯)千草、名倉、なかや、米茶、丸辰、城東、風月、辰己家吉川、お福、七宝、大枡、花月、住家、松葉、はん鐘、湖月などが軒を並べ、互譲会の一行は、筏入札の後は毎日この辺のお茶屋を良く利用したものである。

当時、京橋と住吉橋の間の内川は筏の繁留場所で、川の両岸には料理屋がいならび、寸検をしていると、上から三味線やタイコの音色がよく聞え、時にはビールやアンコロ餅が筏の上につり降されたものである。

京橋や住吉橋の橋詰めには、柳の木が茂り、その根元には客待ちの屋形船が数隻、この屋形船に好きな芸者を乗せて紀の川に乗り出し、屋形船の中で聞くシャミ線の音色は、又ひとしおおつなものがあった。

此の頃の紀の川は、大川と呼び、今の様な背割堤もなく、川巾は数百メートルの広さで澄み切った清流はつきることなく和歌山港に注ぎ、その上に浮ぶ屋形船の風ぜいと、川面に流れるシャミ線の音色は材木屋の全盛時代と平和な当時の世相を物語るものである。

其後時代の変遷とともに、丸の内花街は戦争たけなわの昭和17年アロチへ移転するものや、廃業