貯木場の建設と施設状況

大正8~9年頃より、北洋材の移入が漸次増加するところとなり、最盛期の昭和8、9年頃には、其の移入量は実に150万石から160万石の多きに達した。一方、製材業も欧州戦乱後の末曽有の好況にともない工場数も急速に増加を見るに至った。然かしながら、当時本市には貯木場らしき貯木場はなく、貯木場としてわずかに型をととのえていたものは明治38年に吉野郡の業者らが建設した紀の川口の鼠島貯木場(今の石井産業貯木場)と上市堀や黒滝堀が存置するのみであった。北洋材の移入が初まった大正8~9年頃より、北洋材を主とする貯木場設置の気運が急速に高まり市内各所に相次いで貯木場が建設されるに至った。以下は、当時建設された貯木場建設の情況や其の推移である。

紀の川県営貯木場

 此の貯木場の建設には多くの困難と多年の年月を要しているので先ず其の推移からのべる事とす。

  北洋材の入荷が増大するにつれて台風や洪水により、毎年多くの流失材を見るに至った。かかる現情から和歌山木材同業組合(組合長小野田庄助氏)では、?々協議の結果、県当局にたいし県営貯木場設置方を陳情することに決定、大正11年第1回陳情を行い、爾来機会ある毎に陳情を行うも、