大門川、鈴丸川、広瀬川、藻屑川、和歌川、雑賀川等と呼び当時は水流清く豊かなるも近時は川筋埋没し浚渫が急がれている有様である。

 湊御膳、新橋

此の地域の製材業の発達は本市では最もおくれた。大正から昭和の初期に於ては北村林業和歌山工場(本店奈良県吉野郡)が僅か一工場存在するのみにして、他は数軒の民家と荒れ地同様の田畑であった。

  当時すでに水軒川をはさむ対岸の鼠島には20数工場があり、本市最大の製材工場地帯として発展していたが此の地区には僅か3、4の工場が存在するのみであった。この様に湊御膳の発展のおくれた所以は、当時此の地方の土地は繊維関係の某有力社が所有して居り、仲々手離さなかったためと伝えられているが、昭和の金融恐慌により同社は金融にひっ迫し、遂に此の地を手離すに及び其後の昭和7・8年頃より漸く製材工場の建設を見るに至り、新橋より北側に森野、田中、植平、太田その他数工場と、新橋より南側に、坂口、堀、楠山、井尻、山川等の工場と魁橋より南に、村居、中枌、花米、山本その他数工場の建設を見るに至った。其後漸次増加を見るに至り昭和15年即ち木材統制の前年には新橋より南に14工場と同北側に10工場の建設を見ると共に此の地区も漸く工場地帯の色彩を濃くするに至った。

 此の頃すでに北洋材や米材の入荷が殆んど途絶の情態であったから、此の地区の工場は円鋸を手機に杉、桧の柱角や板類を生産し、主に大阪市に出荷一時大いに利するところあるも建設後いくばくもなくして日支事変の拡大とともに公用材や