此の地域に工場が密集したのは對岸の御膳松と同じく紀の川と和歌山港に面し、木材の荷揚げや積出しに有利であった為である。且つ当時此の地域に吉野材の問屋や仲買商が多く、近くの紀の川沿いに木場があり、此の様な関係から自然に此の地一帯に製材工場が密集したものである。当時背割堤(昭和10年築堤)が未だ築堤を見ず對岸の御膳松とは紀の川をはさんで当時本市製材工場の集団地として極めて対照的であった。此の当時紀の川を一名大川とも呼ぶ。

 此の地区の製材工場は御膳松の板類に反し一般建築用材の中でも特に内地材の柱角が多く上積と称し、大阪から神戸、兵庫方面に出荷された。其の主なる工場には中熊製材や住江製材、平野製材、苧野製材、中谷製材その他数工場あり、中でも中熊製材は其の生産量は最も多く京阪神から遠く鮮満に移出した。此の地区は大正から昭和の初期にかけて本市最大の製材工場地帯として大いに活況をもたらしたが、紀の川の改修工事と和歌山港の修築計画とによって地先水面の使用が不能となり、ついに昭和10年に中洲に集団移転するに至った。中洲地域への移転について当時の模様を左にのべておく事とす。

紀の川の改修工事と集団移転

由来紀の川は本市木材業の発展にもたらした影響は非常に大きいが、其の反面に洪水による一般家屋の浸水流失、田畑の荒廃など被害は頗る甚大なものがあった。故に紀の川の改修は古くよりもっとも緊急視せられ、和歌山市多年の懸案であったが、ついに大正12年工事費500万円をもって、10ケ月の継続改修計画案が成り昭和2年1月工事に着手するに至った。時たまたま国に於ても和歌山港の修築計画を立案しつつあり、