ここに於て本市の製材業は北洋材や米材製材から俄然内地材製材の全盛期を迎え工場数も急増、大正初期の21工場から123工場と激増すると共に生産量も一工場当り平均800石から1,000石へと著しい増加を見るに至り本市は新宮市とならび県下唯一の二間角の産地として急速な転換と発展を見るに至った。

 当時の主な製品は杉、桧の二間角の柱物と板類で販売先は京阪神が主力であった。此の頃市況は満州事変から支那事変勃発の前後にして、需要の増大とともに価格も上昇し一時大いに活況をもたらしたが一方戦線の拡大とともに間もなく公用材や、軍用材の供出制度並び公定価格が実施せられ利を見る期間比較的少くして木材統制時代を迎えるに至った。 以上は素材の入荷状況による大正時代から昭和中期までの、本市製材業発展の推移であるが、次ぎに地域別について其の発達情況を見ると次の通りである。

(二)地区別発達の推移

 大正初期から、昭和の中期(木材統制前)までの本市製材工場の地域別発達状況を見ると、鼠島、西河岸町、湊御膳松、湊中洲、中の島、湊新橋、湊御殿、新町、和歌山筋などに大別され其のいずれも紀の川口や和歌山、水軒川、その他内川沿いに発展を見ている。これは陸送の発達せぬ当時内川は唯一の輸送路で、製品の積出しと原木の入手には此の内川を利用し、且つ内川は自然的貯木場として大いに活用された為である。此の内川は昔は堀川と呼び和歌山城、築城に際し、