技術も幼稚で非能率的で1ヶ月1,000石内外を生産するには毎日残業すると言う様な有様であった。尚、岡本製材所は帯鋸盤を3台設置し、米杉の賃挽を専門に行い、同工場に於て賃挽をする業者が常時二十数人にのぼった。当時本市に於ける米杉の全生産量は1ヶ月平均約10,000石内外であった。主な製品は正2分の7寸から8寸上の天井板で、価格は1坪3円50銭から4円。販売先は県内から四国、中国、九州、遠くは北陸方面にまで出荷され、一時本市は米杉製材の産地として大いに名声を高くした。
 (3)米松製材
 米杉製材と時を同じくして、米松を主に製材する工場の建設を見るに至った。  当時米松は、橋ケタや造船用材、土木建築、その他一般建築用材に使用され、其の主なる工場には、(株)川中組製材所(築地橋西詰)や中熊合名会社(西河岸町)などがあり中でも川中組製材所は当時本市最大の工場として設備も最も近代的であった。同社は大正4年当時吉野材の仲買商たりし、中谷長左衛門、川辺安之助、中西義一の3名が三木町堀詰に川中組木材店として発促したのが其の初まりであるが、大正11年に前記3名の他新に竹内伊三郎、小西楠松、川辺武一郎氏などの新人が経営に参加し、資本金450,000円をもって株式会社川中組製材所の設立を見るに至った。同社は米松の他北洋材、米杉の一般築材をも生産し、生産量も1ヶ月8,000石の大きさにのぼり広く販売網を持ち、関東震災直後にはいち早く東京に出張所を開設するなど、