続く東亜戦争によって昭和16年の夏米英両国の対日資産凍結によって遂に輸入停止となった。

台湾材の移入

台湾材は、戦前本市に相当量の移入を見て居り大正4年11月官弊大社に昇格した竈山神社は昭和8年国費をもって造営されるに当たり、殆んど台桧が使用されている。此の他当時の高級住宅の多くは台桧が使われている。年次別数量等の祥細については明らかではないが当時の建築から見て相当量の移入を見ている。入荷経路は南洋材と同じく大阪の2次問屋、俵松商店、川口木材、松尾商店などから機帆船で移入さる。

当時台湾材と呼ばれたものには、台桧とベニ桧、香杉(コーサン)の3種と台湾桐などがあるが、台湾が日本であった時の台湾の山林は全部総督府の管理であって、同総督府殖産局営林署が経営の任にあたっていた。即ち当時は台湾には一本の民材もなかった。其後花蓮港付近に於て山林開発のため立木が民間に払い下げられるに至り<花蓮港木材会社>が設立され、伐採出材されたのが台湾に於ける民間伐採の初まりである。民間伐採が初まると本島への移入も盛んとなり各地に於て台湾材組合を結成したり近郊の大阪に於ては三井物産、俵松商店、川口木材 松尾商店などがよって<台湾材親交会>を結成するとともに本市への入荷も又盛んとなった。

板類の入荷と板問屋全盛時代

  大正8、9年頃から米杉の天井板の需要が盛んになるにつれて、本市の木材業界の中において板問屋が全盛を極めるようになり、一般の製材所はその比ではなかった。

  この頃の一般製材所の売上は月間平均2,000円内外であったが、