茶箱や果実箱はコロンボへ、石油箱は南洋へ、その他中国、ニュージランド、アフリカ等へ俄然輸出盛んとなり、神戸所在の大手貿易商社は一部の外国商社を交へて、一斉に輸出木箱の取扱いをやると言う盛況をもたらすに至った。  

虫害材と移入の最盛期

  かかる折、大正8年樺太山林に松喰虫の大被害が発見され、その被害は同10年に至って全島の山林に及ぼすに至った。そこで樺太庁は従来の島内産業の重点方策を訂正して、一般に山林立木を払下げ、島外移出を無制限に許可すると共に、樺太庁自ら最大の虫害地区であった亜庭湾(アニワン)地区の虫害山林の官行折伐(カンコウシャクバツ)丸太石数にして、4,500,000石を断行して島外移出売払いをした。

 この官行虫害材は細物で〈官行虫害木5斗廻り〉と称され、径は3寸上から尺長さ12尺5寸であったが、検量は北海丸太寸検で未口最狭部の一方指しの寸止め79掛け、売払価格は、各港湾(太平洋岸)沖着100石建520円であったが、買主側は、虫害材の標準5斗廻り材の需要は、主として製函用であり且つ北海松中丸太の経験等からエゾ、トド材は釘の利目に自信が持てなかったので大勢としては買い付けに尻込みの者が多かったが当時、本市は製函業が盛んであったがために、この虫害材が製函用材として大量に入荷を見るに至った。

 北洋材の内地移入は、前記の如く大正7、8年の松喰虫、被害防止の官行折伐材に始まって、其の翌年に至っては、民間伐採事業が俄然盛んとなり、移入数量は年々激増するに至った。

〈北海道に於ける北洋材大会本市により3名出席〉