文化6年2月、五条代官池田仙九郎よりの達旨 により口役銀を以来公儀により取立相成るをもって直ちに請書を差出すべき旨ね命ぜらる。因て黒滝、川上の両郷より歎願し此の間6ヶ年の久しきに亘り文化11年8月口役銀仕法替となり、此の時より定2口役銀と称する様になり、銀37貫603匁目2分と此の外に夏下げと称し、総取高の1歩7厘を川上、黒滝の両郷に下賜せらる。之を各戸に配当し其の他の郷は取立高の10分の1を下賜せらる。

  明治元年正月川上郷、伊藤清内を郡民の総代となし口役銀継続の事を聖護院を経て大政官に上願す。

 同年4月総督参謀より再度仕法替となり金500円下賜せることに定まりたり、続いて明治2年2月紀伊領岩出口銀(現在那賀郡岩出町)全廃の事を数回奈良県庁へ上願す。(注 此の岩出口銀は当時和歌山藩の大きな財源であったが為に和歌山藩はこれに反対、従って此の全廃には幾多の困難と紛争が発生した。此の岩出口銀廃止について奈良県林業史に次の如くあるので以下同史原文の儘記録す。) 口役銀をめぐって和歌山藩と奈良県の対立 明治元年12月奈良県は銭札交通制度となる。此の機に乗じ従来の岩出見取1割の口銀が高過ぎるが故えに吾が吉野郡民窮乏に貧し郷中有志等相より評議の末え明治2年2月岩出口銀の廃止法を奈良県庁産物係へ歎願す。然るところ奈良県は係官を派遣し実情検分の結果高税なることを熟知、本県より民部省に其の旨ね願出たり。民部省も此の歎願を了とし依って明治2年9月12日附をもって民部省より廃止の達旨方これあり候。然るところ和歌山藩はこれを不服とし従来通"取立方の事情申立これあり候。