貯木場施設と建設の情況

 由来木材業の発達には貯木場は必要かくべからざる施設である。然かしながら本市には貯木場らしき貯木場はなく市内、内川の各河川はいずれも自然的貯木場として利用された。此の当時(明治初期―中期)貯木場として稍々型をととのえていたものは加納浜と西黒滝堀があるのみであった。その後吉野材の流下が増大するに至り明治38年に吉野郡川上、小川、中荘郷の業者らがよって起債28,000円をもって鼠島に約30,000坪の貯木場の建設を見るに至ったが、此の貯木場が建設されるまでの貯木施設の情況について明治31年発行の吉野林業史に次の如く記録されているので参考のため以下原文の儘掲載す。

 和歌山港の川口を東より西に流る処にして此の川口に木場(筏置場を言う)を設く此の木場は字北島橋より以下水天宮前までなり(字嘉字作り下にも少々あり)此の木場を籖取りを以て各問屋毎に区分し各々筏置場に当つ。もっとも材木の売遠きものは漸次貯木場へ差し廻し囲い置く也、又貯木場を第1字鼠島(新場とも言う川口の南側にあり谷井勘右衛問の所有)第2字久座(土入川とも言う北島橋の橋を渡り北側にある官地)第3字福島(古川とも言う北島橋を渡り久座川の上北側に在る官地)の3ヶ所なり但し非常洪水の際貯木場に木材差入れ難き時、又は非常に材木輻奏する時は字デンボ橋の入り口より内川へ差廻し(官許を経 て)非常急難を避くることなり。