素盞鳴尊は出雲国に御帰還、熊成峯(くまなすのたけ)に居られ、後根国に行き給ひしと謂う。五十猛命は妹神等と共に本国に止りて能く殖林に専念し給い、国中能く樹木の繁殖を見たりしかば国号を建てゝ(木)と云うに至る。 故に五十猛命の御事業は以て本県に於ける林業の起源なりと云うを得べし。現在和歌山市西山東の常盤山に鎮座し給う、官弊中社伊太祈曽神社は和銅6年10月、五十猛命御兄妹三柱を祀れる神社にて今尚、殖樹の祖神として世の崇敬する所なり。 (註) 『木の国、字義に就ては次の如くある。木の国の字義、木を以て国号とせし由は五十猛命二妹と共に素盞鳴命に従い天降り給いし時、樹種大八州国に播殖し給う。当国は其の三神御鎮座ありし地なれば、樹木の繁茂せしとて、他の国よりも殊に勝れたれば、木の国と名つけしなりと、紀伊風土記に辨せるが、古来学者一般にこの説に據る。又、神武記一書に、素盞鳴尊之子、號日五十猛命、妹大津屋姫命、次抓津姫命、凡三神亦能分布木種即奉渡於紀伊国也と、故に古書紀国をも作る。伊は添字にて発声せずして可なり、地名此例多しとある。国史綜覧にも、木種を布幡せし故に木国と名づけ、又木の用は、家を作るを主とするより大屋といいしなるべしとあり。』本国は温暖にして適潤なるにより樹木の繁植に適し、神武天皇は大和国橿原に皇居を造営せらるゝや、本国に其の材を求めし給うと言う。名草郡(現和歌山市)に御木廉香郷あるは上古森林の伐採を採りし斉斧称せられ其の治績の見るべきもの多し、殊に徳川幕府が義直を尾張に封じ頼宣を紀伊に封ぜしは、木曽山林及本藩山林の保護経営に特に意を用いたるものなり。其後の歴代藩主も亦、概ねよく祖業を継ぎて誤らず、