三浦為春等を従えて和歌山城に入った。これ即ち紀州徳川氏の始祖南竜公頼宣である。爾来第14代茂承まで実に250有余年間当国を治めた。
徳川公在城時代の市勢
 築城以前の旧市域は東に岡、北に宇治、鷺の森、釘貫、徳田木、四日市、西に湊、南に吹上の小聚洛があるのみで、人煙稀薄であったが、天正13年和歌山城の築営成るにおよび、釘貫村を郭内にとり入れて、その民家を城の正北、今の北町に移し、郭外東西に堀川を開さくして西方の伝法から紀の川の水を導き、東方鈴丸川の水を通じてソトボリとするにいたり。広瀬通りを、細工町、三木町、堀詰等の町々漸次に生れ出た。ついで浅野氏本国を領した時、広瀬口を大手と定め、慶長6年(1601)町割を決行して市カクを改易し、商買工人の四方から集まり来る者多く北方城之口まで広廓した。後元和5年徳川頼宣入国してさらに大手を北方一の橋に改め、京橋門の北に通衢を開いて本町とし、しばしば市鄽寺院を移易して各々その便に就かしめたが、また城下区域を拡張して東は広瀬川を渡って新内(あろち)、中之島両村の地に亘り、新市街を作って新町と名づけ、北は鈴丸川を越えて中之島村領の一部にかけ北新町を開いた。爾来市画は次第に膨張して嘉家作り駅にいたる北部先ずひらけ、ついで南部西南部も市町を形成して、古昔浜千鳥の啼し音に冴えた吹上の浜の月も今は家より出でて家に入る風情とかはった。  徳川氏10代治宝の時、従来和歌山市町の質素な田舎風なるを嫌い、かくては天下3藩の城市にふさわしくなからずとして、これまで草門、土塀、玉垣をめぐらして隘陋であった士邸を海鼠壁、長門屋の壮麗秀美に改めさせたため、ここに城下街は